久しぶりに街中へ出かけたら、昔好きだった酒が薄暗い店の片隅に、ひっそりと置いてあった。 あのマドモアゼルに見つかったらまたなんか小言をいわれるかな、と思いながら、 どうしても無性に飲みたくなって、こっそり買った。 見つからないように隠しておいて、すっかり忘れていたのだけれど。   『Uisge Beatha』   The spirits is best partner of my life 風が強い夜だった。 先ほどまで月がうっすら見えていたのだが、雲が流れてきたらしくて、すっかり隠れてしまった。 ごそごそと隠しておいた酒のビンを取り出す。 其処に書かれている銘を見て、その芳醇な味を思いだし、思わずブリテンの顔が緩む。 グラスを取り出し…ふとリビングの方に人の気配があるのに気付く。 ついこの間、突然独逸から海を超えてやってきた死神殿だろう… 苦笑して、もう一つグラスを出した。 「おや、電気もつけずに」 今気付いた、というように白々しく声をかける。 驚いたように一寸眼を見張るハインリヒ。 誰よりも気配に聡い彼が、そんなにぼんやりしていることはめったに無いのに、 これはよっぽど重症らしい…ブリテンは心の中で呟いたが、それを微塵も出さずに、 にこやかな声で語りかけた。 「何をしておるのかね、死神殿?  いや、何もしておらぬではないか。  いかん、いかんぞ。  こういう夜こそ、酒を飲むにふさわしい」 にやり、と笑いかける。 ハインリヒは軽く肩をすくめたものの、出て行け、とは言わなかった… 居てもいい、とも言わなかったが。 勝手に、了承の印と採って、ブリテンはハインリヒの正面のソファーに座った。 テーブルに、酒のビンとグラスを二つ、水の入ったデキャンタとつまみにともって来たクラッカーを置く。 グラスを自分の前に寄せ、ビンのコルクを抜いた。 「世の中に酒は色々ある。  ワインにビール、リキュールにブランディー。  だが我輩はやはりウィスキーが一番好きだ。  北の大地と水が生み出した琥珀色の液体だよ。  世間ではこいつをオンザロックで飲んだり、炭酸割にしおったり、  あのアメリカの若造あたりはストレートでかぱかぱ飲むが、  我輩に言わせればそんなものは邪道だ。  ウィスキーの芳醇な馨りが引き立つのは、水割りだよ。  水との割合も重要だ。  ジャブジャブ薄めたのではいかん。  美味い水と、一対一。  氷は無用だ。  口に含んだら、そのまま飲み込まずにゆっくり噛んで含め、  口から鼻に抜ける香りを楽しむ。  こうしてこそ、ウィスキーの真価が味わえるというものだ」 朗々と薀蓄を語りながら、手元は流れるような作業で水割りを作っていく。 グラスに指一本分ウィスキーを注ぎ、その上に水を同じくらいの量、注ぐ。 最後に軽くからからとマドラーでかき回すと、華のような香りが部屋いっぱいに広がった。 あまり日本では手に入らない会社のウィスキー。 本当は、自分ひとりでこっそり飲もうかと思っていたのだけれど。 作った水割りをハインリヒに手渡す。 「さぁ、飲んでみてくれ。  ブルイックラディの15年物だ。  これこそ、『Uisge Beatha』というに相応しい味さ」 「…ウィスゲ…なんだって…?」 聞き取れなかったのか、それとも言葉自体がわからなかったのか。 ハインリヒが軽く眉根を寄せながら聞き返した。 「『ウィスゲ・ベーハー』…我輩の国の古い言葉で、『命の水』という意味だ」 軽く笑いながらブリテンが答える。 それは今は殆ど使われていない、古い言語だった。 大昔、人と妖精が共に暮らしていた時に使われていたともいわれる言の葉。 ブリテンの応えを聞いて、ハインリヒがふと自嘲気味に一瞬だけ唇をゆがめた。 「命…ねえ…まさかこの俺に命の大切さを説こうとでも?」 「そんなわけなかろう?  ただずいぶんと落ち込んでいるようなので、  一寸は景気付けてやろうかとね。  やはりこの時期…あそこにいるのはきついかい?」 「!」 灰青色の瞳が、まるで戦場に居る時のように、鋭いナイフのような銀の光を放つ。 その視線を真正面からとらえ、一瞬息が止まるが、動揺をおくびにも出さずに、 平然を装ってブリテンは言葉を繋いだ。 「あの時の独逸の熱狂振りは凄かった。  我輩は丁度パブにいてテレビの中継で見たのだが、  いきなり隣にいた奴が泣き出しおってな。  聞いたら、独逸からの亡命者だというんだ。  ……  一緒に亡命した親父さんもお袋さんも  この日を知らずに逝ってしまった、  せめて生きているうちに統一とは言わない、  壁くらいは無くなって欲しかった…と」 話しながらハインリヒの視線が弱くなり、ついに伏せられるのを見てやはり、 とこっそり気付かれないように嘆息する。 ついこの間突然ハインリヒは『今から行く』という電話をよこし、言葉通り電話から二日後に日本にきた。 少々唐突だが、そろそろメンテナンスの時期だから、と他のメンバーたちは納得していたようだったが、 ブリテンは些か納得できかねていた。 だが、その疑問は、ふとカレンダーを見たことで氷解した…もうすぐ11月9日。 すなわち、ベルリンの壁が崩壊した日…ハインリヒが壁を越えるのに失敗し、 そして過酷な時を生きることになった、その原因。 だが、その壁は、今はもう無い。 東西のドイツは統一され、統一記念日は国の祝日となった。 統一記念日にはかろうじて居れたものの、その一ヵ月後のベルリンの壁崩壊日は、 だんだんその日が近づくにつれ、自分の罪がまざまざと思い返られるようで、 どうしても居られなかったのだろう。 「壁か。  我々は生きているうちに様々な壁というものにぶつかる。  それはあるいは学力の壁だったり、財力の壁だったり、  自分の能力の壁だったりもする。  だがね、そんなものは大した壁ではない。  どれもこれも、己の努力一つで簡単にひょいと飛び越せる。  だが、己の努力一つでは越せない壁も確かに世の中にはある。  人種の壁、身分の壁、そして思想の壁。  …あの壁は、思想の壁そのものだったのだな。  決して、高くは無い。  決して、強固なわけでもない。  ただ…長い」 おそらく、彼の心中では様々な考えが渦巻いているのだろう。 だがハインリヒは自分のことを自ら話す人ではない。 だから、ブリテンが知っているのも、せいぜい『亡命に失敗して、恋人を失った』程度である。 目の前の仲間がこんなに苦しんでいるのに何の力にもなれないのか、とふと自嘲する。 心の中で苦笑したつもりが、思わず外に出ていたらしい。 訝しげな灰青色の瞳がこちらを見た。 一息ついて、言葉を続けた。 「残念ながら我輩はドイツに入ったことが無いし、  家族を分割されたことも無い。  お前さんの国が歩んできた歴史を知っているだけさ…  いや正確にはお前さんが寝ていた時の歴史かね。  だから実際のところはよく知らない。  我輩の勝手な想像だよ。  ま、聞き流してくれ」 軽く肩をすくめ、ブリテンはグラスの酒をあおった。 ハインリヒは、身じろぎもせずにグラスのウィスキーをただ見つめる。 ブリテンがウィスキーを嚥下する音が、やけに大きく響いた。 「ジョーが…」 しばらくして、唐突にハインリヒが口を開いた。 視線は、グラスに…いや、グラスの向こうの、空間に合わせたままだった。 クラッカーを咀嚼して、ブリテンがハインリヒに視線を合わせる。 「ジョーは、ドイツが分裂していたと  いうことは世界史の授業で習ったというんだ。  歴史、なんだ。  本人はドイツが分裂していた時代は  殆ど覚えてないというか、物心つく前だったそうだ。  俺達が何故、東から西に亡命しようとしたのかが、  ピンと来てないようだった。  北朝鮮から韓国に逃げるようなもんだ、  と言ったら一応それなりに納得したようだが。  実際…亡命の成功率を、知っているか?」 いきなり聞かれ、ブリテンはあわてて口の中のクラッカーを飲み込む。 「ん…いや、知らないな。  低かったのか?」 首をひねりながら答えるブリテンに、首を横に軽く振って、ハインリヒが答える。 「逆だ。  成功率の方が、高かった。  壁は、俺たちのときはまだ近代的な設備が整ってなくて、  兵士の巡視や警備犬やらが主な見張り手段だったから、  夜闇に乗じたり、交替の隙を突いて壁を乗り越えれば  意外とあっさり成功したんだ。  だからこそ思うんだ…  何故あの時失敗したのかと。  壁を乗り越えるという手段もあったことにはあったんだがな。  あいつがそのとき…妊娠してたから」 ぶっ! ブリテンは、今まさに飲み込もうとしていたウィスキーを、思わず盛大に吹き出してしまった。 そのまま、むせる。 ものすごく、とんでもないことを聞いたような気がする。 呆れたようにブリテンを見やるハインリヒ。 「何やってんだ…汚いな。  それに、勿体無いぞ」 「…既婚者か」 文句を言いつつ、立ち上がって布巾を差し出し、後ろに回って背中をさすってやるあたり、この男らしい。 ハインリヒが差し出した布巾を受け取り、漸う息をつきながら、ブリテンは、それだけ聞く。 「なんというかその、結婚しようとした矢先に壁が出来て、  俺は西ベルリン、彼女は東ベルリンに分けられちまったんだ。  だから…既婚とはいえない。  だが、指輪は既に渡してあったし、告知もしてあったから…」 日本のような戸籍制度のないヨーロッパでは、重婚を防ぐため結婚しようとする男女は新聞等に、 誰と誰が結婚する、という意味の告知広告を一定期間出すのである。 見上げたハインリヒの顔は、微妙に赤かった。 照れているのか、と思うと思わず笑いがこみ上げてきて、再びむせてしまった。 「壁が出来るまでは東西の行き来は結構簡単だったから、  彼女は東に住んでて、西(こちら)に働きにきていたんだ。  西のほうが賃金が良かったから。  結婚したら西に来るはずだった。  家も用意してあった。  西の友人も、祝福してくれていた。  東の彼女の両親も呼び寄せようと思っていた。  …全部、おじゃんになっちまったがな」 左右非対称な、かすかな笑顔をハインリヒは見せた。まるで泣く直前のような、 笑い出す直前のような、怒る直前のような、そんな感情を瞳の奥に浮かべて。 「…、お前、さん、は、全く、ときどき思いもよらぬことを、  さらりとのたまうから心臓に悪い。  老人をいたわってくれ」 ぜいぜいと、息を切らしながらも、漸くまともな科白を綴ることに成功する。 ハインリヒが丸く右の眉毛を吊り上げた。 「おいおい、四十五はまだ老人じゃないだろ。  それに年齢なら俺のほうが上だ…  三十、プラス冬眠期間四十年、それに加えて起きた後の稼動年数。  ギルモア博士より老人だ」 それを聞いて、ブリテンも片眉を吊り上げながら言った。 「博士に聞かれたら怒られるんじゃないかね、それ」 「もう言ったことがある…  『馬鹿たれ、わしはまだまだ若い、200まで生きるわい』  …だとさ」 「博士らしい」 思わずお互いに顔を見合わせ、どちらからともなく笑い出した。 一瞬、大声が出てしまい、あわてて声を抑える。 お互いに、シーっと人差し指を立て、それが可笑しくてまた笑った。 漸く笑いの発作が通り過ぎ、ハインリヒがブリテンと視線を合わせると、ブリテンが、にやりと笑いかけた。 「漸く笑ったな。  これでマドモアゼルに顔向けが出来る」 「フランソワーズ?」 はてな、とハインリヒが考え込む。 「何時に無くふさぎこんでいると心配しておったよ。  …流石に彼女は、理由には思い当たれなかったようだが」 「無理もない…フランソワーズも第一世代だ。  彼女の中ではドイツはまだ東西に分裂してるんだ。  違う国の話題だし、実感も湧かないんだろうさ」 苦笑して、ハインリヒがぽん、とブリテンの肩を叩き、再びソファに座る。 先ほどの位置ではなく、ブリテンの斜め前、一寸だけ近い席に。 グラスを見ると、残念ながら既に空になっていた。 ブリテンの空になったグラスをついでに引き寄せ、今度はハインリヒが水割りを作る。 先ほどブリテンが朗々と語りながらやっていたように。ブリテンは、その手元をじっと見つめていた。 出来上がったグラスをブリテンに渡す。 マドラーでかき混ぜた余韻で、まだ水面がざわめいているグラスをハインリヒは覗き込んだ。 ふと、ハインリヒの視線が遠くを見るような感じになって。 がば、とはじかれたように顔を上げた。 「?」 ビックリしたようにハインリヒを見るブリテン。 一体、彼の中で何の葛藤が在ったのだろうかは不明だ。 視線でどうかしたかと問い掛けるまでもなく、ごにょごにょと照れ隠しにか、ハインリヒ自ら口を開いた。 「あ…いや、その…  ウィスキーはあまり飲んだこと無いが、  なかなか良いものだな…と思って」 「ふふ、お望みならばいろいろ教えて進ぜようぞ。  これはシングルモルトだが、ブレンデットも捨て難い。  アイラにスペイサイド、土地によって全く性格が違う。  死神殿のお好みはどれだろうな」 一体、何を考えて居たのか気になるところではあるが、 あれやこれやとワイドショーのレポーターよろしく詮索するのは誉められたものではない。 ここは、何も聞かず、気づかなかった振りをしてやるのがベストだ。 そう、酒の席の戯言、とでもいう風を装って。 呆れたようにハインリヒが一つ息をついた。 「…心底楽しそうだな、アンタ」 「酒は人生の最大の伴侶だよ…  気心の知れた仲間と共に飲む酒ならばなおのこと」 おどけたようにウインクをする。 それにつられたように、ハインリヒのセレスティアルブルーの瞳がふわりと緩んだ。 ハインリヒも、茶目っ気たっぷりに笑いを含んだ声で言う。 「ならば…教えてもらうとするか。  よろしく、ブリテン先生」 「もちろんだともハインリヒ君」 気難しい大学教授よろしく、鷹揚に頷くブリテン。 お互いにあまりに言い方が可笑しくて、再び笑い転げる。 「グレート」 漸く笑いの発作がおさまったころ、ハインリヒが真剣な声でブリテンを呼んだ。 きらきらと人工的に光を反射するアイカバーの奥から、深く、透き通った蒼の瞳が透けて見える。 その視線の先には、柔らかな、緑がかった薄い茶色の瞳。 一瞬絡み合った視線に、万感の思いを篭めて。 お互いにどちらとも無く無言でグラスを掲げる。 月の光が、雲の隙間から彼らを照らしていた。