1945年、4月30日。午後三時半。 ヒトラー、ピストル自殺。 翌日、ラジオ放送によりその死を告知される。 5月8日、独逸無条件降伏。 米、英、仏、ソの4カ国の分割統治により独逸は2つに分けられ、首都ベルリンもまた分割。 西ベルリンは東独逸内部で唯一の「自由への扉」となる。 1961年8月13日未明。 東独逸政府は西ベルリンを経由して、東独逸から西独逸に逃れようとする避難民の流れを断ち切る為、 僅か一晩で東西ベルリンの境界線におよそ45キロメートルにも及ぶ鉄条網の壁を設ける。 それでも夜闇に乗じて西に逃げる人々の流れは止まることはなかった。 こうして、東西の二つの独逸は1989年11月9日のベルリンの壁崩壊、 翌年10月3日の東西統一まで同じ国でありながらも別々の歴史を歩むことになったのである。  『Uisge Beatha』   Der Geist ist bester Partner meines Lebens ひそやかな風が夜を渡る音がする。 故国にはどうしてもいられなかった。 いや、居たくなかったというのが正しいか。 危うい賭けをして死なせてしまった「彼女」の顔がちらつく。 東西統一記念日で浮かれ騒ぐ、明るい笑顔の中に、自分の大切な人の顔は… 無い。 「おや、電気もつけずに」 酒のビンとグラスとをかちゃかちゃ鳴らしながらブリテンがリビングに入ってきた。 「何をしておるのかね、死神殿?  いや、何もしておらぬではないか。  いかん、いかんぞ。  こういう夜こそ、酒を飲むにふさわしい」 そう言いつつ、ハインリヒの正面に腰を下ろす。 ニヤリ、とおどけて見せるブリテンにハインリヒはただ肩をすくめることで酒盛りに同意する。 「世の中に酒は色々ある。  ワインにビール、リキュールにブランディー。  だが我輩はやはりウィスキーが一番好きだ。  北の大地と水が生み出した琥珀色の液体だよ。  世間ではこいつをオンザロックで飲んだり、炭酸割にしおったり、  あのアメリカの若造あたりはストレートでかぱかぱ飲むが、  我輩に言わせればそんなものは邪道だ。  ウィスキーの芳醇な馨りが引き立つのは、水割りだよ。  水との割合も重要だ。  ジャブジャブ薄めたのではいかん。  美味い水と、一対一。  氷は無用だ。  口に含んだら、そのまま飲み込まずにゆっくり噛んで含め、  口から鼻に抜ける香りを楽しむ。  こうしてこそ、ウィスキーの真価が味わえるというものだ」 朗々と薀蓄を語りながら、水割りを手際よくつくっていくブリテンの手元をハインリヒは、ぼんやりと眺めた。 カラカラとマドラーで軽くステアすると、ウィスキーのふくよかな香りが部屋に広がる。 グラスを手渡しながらブリテンが言葉を紡いだ。 「さぁ、飲んでみてくれ。  ブルイックラディの15年物だ。  これこそ、『Uisge Beatha』というに相応しい味さ」 「…ウィスゲ…なんだって…?」 自動翻訳機でも訳し切れなかった、奇妙な単語にハインリヒは片眉を丸く吊り上げる。 ウィスゲ・ベーハー。 とりあえず、そう聞こえた。聞こえただけ。自動翻訳機は、 主要な言語に関しては口語表現やスラングまでご丁寧に訳するものの、 残念ながら世界中全ての言葉までカバーしているわけではない。 どうやら翻訳不可能な言語だったらしい。 ブリテンはにやり、と唇を吊り上げた。 「『Uisge Beatha』…我輩の国の古い言葉で、『命の水』という意味だ」 「命…ねえ…」  自嘲気味にハインリヒが言う。  口元が、苦笑の形に一瞬ゆがみ、すぐ消えた。 「まさかこの俺に命の大切さを説こうとでも?」 「そんなわけなかろう?  ただずいぶんと落ち込んでいるようなので、  まあ、一寸は景気付けてやろうかとね。  やはりこの時期…あそこにいるのはきついかい?」 「!」 灰青色の瞳が一瞬鋭くなり、緑茶色の瞳を捕らえる。 ある昼下がり、突然独逸からきた来日通告。 その電話から数日もしないうちにハインリヒはやってきた。 メンテナンスの時期が近かったこともあり、仲間たちは全く不思議にも思わなかったのだが。 「あの時の独逸の熱狂振りは凄かった。  我輩は丁度パブにいてテレビの中継で見たのだが、  いきなり隣にいた奴が泣き出しおってな。  聞いたら、独逸からの亡命者だというんだ。  ……  一緒に亡命した親父もお袋もこの日を知らずに逝ってしまった、  せめて生きているうちに統一とは言わない、  壁くらいは無くなって欲しかった…と」 ハインリヒの瞳の光が弱くなり、ついに伏せられる。 それに気付いているのか居ないのか、ブリテンはかまわず言葉を繋ぐ。 「壁か。  我々は生きているうちに様々な壁というものにぶつかる。  それはあるいは学力の壁だったり、財力の壁だったり、  自分の能力の壁だったりもする。  だがね、そんなものは大した壁ではない。  どれもこれも、己の努力一つで簡単にひょいと飛び越せる。  だが、己の努力一つでは越せない壁も確かに世の中にはある。  人種の壁、身分の壁、そして思想の壁。  …あの壁は、思想の壁そのものだったのだな。  決して、高くは無い。  決して、強固なわけでもない。  ただ…長い」 ベルリンの壁は、高さおよそ4メートルほど。鉄条刺が張られているとはいえ、 越そうと思えば簡単に越すことが出来る。 僅か一日で急造されたもののため、厚く、しっかり造られている訳でもなかった。 何しろ、ベルリンの壁崩壊時、東からの斧のわずか一撃で脆くも崩れ去ったのだから。 それでも、壁は20年以上の長きにわたり、そこに、在った。 東西冷戦の象徴。 それは、あの残酷なまでに犯罪的な戦争の、亡霊でもあった。 ふふふ、とふとブリテンが笑う。 訝しげにハインリヒは顔を上げると、以外に真剣なヘーゼルとかち合った。 「残念ながら我輩はドイツに入ったことが無いし、  家族を分割されたことも無い。  お前さんの国が歩んできた歴史を知っているだけさ…  いや正確にはお前さんが寝ていた時の歴史かね。  だから実際のところはよく知らない。  我輩の勝手な想像だよ。  ま、聞き流してくれ」 軽く肩をすくめ、グラスに残っていたウィスキーをくいっと呷る。 ハインリヒは、手に持ったグラスの中の琥珀の液体を見つめた。 自分の顔が水面でぶれて奇妙に揺らめく。 しばらく、静かに時が過ぎた。 「ジョーが…」 ハインリヒがグラスを見つめたまま、唐突に口を開いた。 「ジョーは、ドイツが分裂していたということは  世界史の授業で習ったというんだ。  歴史、なんだ。  本人はドイツが分裂していた時代は殆ど覚えてない  というか、物心つく前だったそうだ。  俺達が何故、東から西に亡命しようとしたのかが、  ピンと来てないようだった。  北朝鮮から韓国に逃げるようなもんだ、  と言ったら一応それなりに納得したようだが。  実際…亡命の成功率を、知っているか?」 「ん…いや、知らないな。  低かったのか?」 「逆だ。  成功率の方が、高かった。  壁は、俺たちのときはまだ近代的な設備が整ってなくて、  兵士の巡視や警備犬やらが主な見張り手段だったから、  夜闇に乗じたり、交替の隙を突いて壁を乗り越えれば  意外とあっさり成功したんだ。  だからこそ思うんだ…  何故あの時失敗したのかと。  壁を乗り越えるという手段もあったことにはあったんだがな。  あいつがそのとき…妊娠してたから」 ぶっ! 盛大にブリテンがウィスキーを噴出し、むせる。 顔をしかめるハインリヒ。 「何やってんだ…汚いな。  それに、勿体無いぞ」 折角のいい酒が…などと文句を言いつつも、立ち上がって布巾を差し出し、 そのまま後ろに回ってブリテンの背中をさすってやる。 ひくひくと痙攣したようにブリテンはしばらく震えていたが、漸く収まったらしい。 じんわりと涙の浮いた目で後ろを見上げる。 「…既婚者か」 「なんというかその、結婚しようとした矢先に壁が出来て、  俺は西ベルリン、彼女は東ベルリンに分けられちまったんだ。  だから…既婚とはいえない。  だが、指輪は既に渡してあったし、告知もしてあったから…」 日本のような戸籍制度のないヨーロッパでは、重婚を防ぐため結婚しようとする男女は新聞等に、 誰と誰が結婚する、という意味の告知広告を一定期間出す。 その間、誰からも反対されなければ、晴れて結婚。 その後、洗礼教会や、役場に行って、届出をすれば完了となるのである。 少々狼狽気味にハインリヒが告白する。 目元が赤いのは酒の所為だけでは無いだろう。 「壁が出来るまでは東西の行き来は結構簡単だったから、  彼女は東に住んでて、西(こちら)に働きにきていたんだ。  西のほうが賃金が良かったから。  結婚したら西に来るはずだった。  家も用意してあった。  西の友人も、祝福してくれていた。  東の彼女の両親も呼び寄せようと思っていた。  …全部、おじゃんになっちまったがな」 ほんの少しだけ、口元をゆがめる。 笑みの形に。 ブリテンが息を告ぎながら、ようよう台詞をはく。 「…、お前、さん、は、全く、ときどき思いもよらぬことを、  さらりとのたまうから心臓に悪い。  老人をいたわってくれ」 「おいおい、四十五はまだ老人じゃないだろ。  それに年齢なら俺のほうが上だ…  三十、プラス冬眠期間四十年、それに加えて起きた後の稼動年数。  ギルモア博士より老人だ」 「博士に聞かれたら怒られるんじゃないかね、それ」 「もう言ったことがある…  『馬鹿たれ、わしはまだまだ若い、200まで生きるわい』  …だとさ」 「博士らしい」 思わず顔を見合わせて、笑いあう。 夜、皆は寝静まっているから大きな音は出せない。 お互い、声を出さずに爆笑した。 笑いながら、ハインリヒは日本に来てから初めて素直に笑ったことに気付いた。 ほんの少しだけ、気分が上を向く。 ブリテンを見やると、してやったりというようにヘーゼルがきらきらとしていた。 「漸く笑ったな。  これでマドモアゼルに顔向けが出来る」 「フランソワーズ?」 「何時に無くふさぎこんでいると心配しておったよ。  …流石に彼女は、理由には思い当たれなかったようだが」 「無理もない…フランソワーズも第一世代だ。  彼女の中ではドイツはまだ東西に分裂してるんだ。  違う国の話題だし、実感も湧かないんだろうさ」 ヨーロッパが地続きで、例えば日本におけるアメリカの話題よりはよっぽど近いこととはいえ、 40年以上前の認識ではせいぜいこんなもんである。 因みに彼女はジョーを先生役に据えて、現在のヨーロッパ情勢について勉強中らしい。 4、50年前にはなかった国が出来たり、逆に消えたり。めまぐるしく変わる世の中。 そういえば、昨日フランがユーロに変わったことに大分憤慨していた。 あれにはハインリヒも戸惑ったが。 だが、ヨーロッパを一つの共同体に…と言う発想は悪くない。 ぽん、ブリテンの肩を叩き、ハインリヒはブリテンの斜め前の位置に座る。 先ほどより、ほんの少しだけ位置が近くなった。 今度はハインリヒが水割りを二人分作る。 先ほど、ブリテンがやっていたようにウィスキーと水を混ぜ、軽くステア。 マドラーがグラスとふれあい、クリスタルハープのような音を立てる。 ハインリヒはウィスキーよりドイツワインの方が好きなので、 ウィスキーについてそんなに詳しいというわけでもないのだが、 この酒が極上の逸品というのには言われなくても納得できる。 花のような香り、複雑に絡み合う味。 冷たく、荒んだ大地に新しい活力(いのち)を与えてくれるような、そんな柔らかな感覚がひろがる。 ふと、酒から受けるイメージが「彼女」と重なった。 グラスの中に映る自分の琥珀色の顔が歪み… 琥珀色の髪を持った彼女が一瞬微笑んで、消えた。 思わずはじかれたようにハインリヒががばと顔を上げると、ビックリしたようなブリテンの視線と合った。 「?」 「あ…いや、」 聞かれても居ないのに、照れ隠しに言い訳がましくごにょごにょと口を濁す。 「その…ウィスキーはあまり飲んだこと無いが、  なかなか良いものだな…と思って」 「ふふ、お望みならばいろいろ教えて進ぜようぞ。  これはシングルモルトだが、ブレンデットも捨て難い。  アイラにスペイサイド、土地によって全く性格が違う。  死神殿のお好みはどれだろうな」 「…心底楽しそうだな、アンタ」 「酒は人生の最大の伴侶だよ…  気心の知れた仲間と共に飲む酒ならばなおのこと」 ヘーゼルが茶目っ気たっぷりにウィンクを一つよこす。 つられたように、セレスティアルブルーの瞳がふわりと緩んだ。 「ならば…教えてもらうとするか。  よろしく、ブリテン先生」 「もちろんだともハインリヒ君」 お互いに言い方があまりに芝居がかっていて、再び笑い転げる。 笑いの発作が漸くおさまり、ふとハインリヒは真剣な瞳でブリテンを呼ぶ。 「グレート」 ブリテンもまた、表情は柔らかいものの、真剣な瞳でハインリヒを見る。 一瞬視線が絡み合い。 お互いにどちらとも無く無言でグラスを掲げる。 夜に、小さな優しい音が響いた。