某所で、「寛容とは何か」ということをいっているサイトを見つけました。 ちょっと同人風味の強いサイトなので、ここでの紹介は控えますが。
そこのサイトの、とあるSSの中に出ていたんですが、曰く 「”寛容”とは、自分と全く違う価値観をもつ存在と、 常に共存していこうとする”お互いの覚悟”の事である」
当然、通常”寛容”を辞書でひけば「他人の考えをよく受け止め、 受け入れる心の広さ」のような意味が出てくると思いますし、 当然それは「寛容」の意味ですが、辞書の意味だけでは、 ある意味、多者あるいは強者が弱者にかけるお情け、 同情のようなものが含まれてはしないか。 ただ、相手を受け入れるだけでは少し物足り無い、 そこからお互いに相手と共に在る、という覚悟が無いと、 本当の「寛容」とは言いがたいのではないか。
このお互いに、というところが曲者で、自分ひとり「寛容だ」と 言っているだけでは、相手から見ればそれはただの同情心、 哀れみに過ぎないかもしれない。 あるいは逆に、卑屈な言い訳と取られるかも知れない。 お互いに相手を赦し合い、認め合い、共に在ろうとする覚悟があって、 それで初めて「寛容」という単語が使えるのではないだろうか。
聖書に、「人を裁くな。人を裁いたその天秤で、あなたもまた裁かれている」 「我々は、赦すことによって赦され、愛することによって愛される」 という二つの文が出て来ます。 これもある意味、「寛容とは何か」を示した文だと思います。 自分と違う価値観を持つ人と一緒にいることは、非常に困難です。 何しろ、話が合わないから、まず疲れる。 こちらの言うことと相手の考えてることが合致してないと、 お互いに一つ一つ説明しなければならないので、時間もかかる。 それでもなお、相手と一緒にいたいと望むこと。 相手の存在に対して、敬意を払うこと。 相手と、自分とは違う存在であるということを認めること。
私は基本的に楽天家なので、めったなことでは腹を立てたりしないのですが、 それは多分「寛容」とは違う。多分ただの事なかれ主義。
…はたしてそんな覚悟は、自分に本当にあるんだろうか。
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