† Green Eyed Passion †

そこは、自分と彼だけの秘密の場所なのだ。


「じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、お休みなノーネ」
メモラーは、挨拶を交わし、ノーネと別れた。
背後でノーネが、墓の入口の門に鍵をかける音が聞こえる。
メモラーは、毎日、とは言わないが、しょっちゅう墓場にきて、親の墓石の前にいる。
最初は、日が暮れると鍵がかかってしまうので、柵をこっそり
乗り越えていたのだが、あるときそのことに気付いた墓守のノーネが、
彼のために施錠の時間を遅らせてくれた。
それ以来十年近く、深夜の墓地は、メモラーとノーネだけの『秘密の場所』と化していた。
メモラーにとって、墓地でノーネと会い、両親の墓を見ることは、大切な時間でもあった。
ちらり、と振り返ると、月を背後に背負ったノーネが、大きなあくびをした所で。
メモラーは、思わず笑った。


(墓地に行くのは、久しぶりだな…)
ここしばらく忙しく、墓地にいく時間が取れなかったのだが、
今日はたまたま、城での仕事が早めに終わり、
メモラーは空いた時間を墓場で潰そうと、森へと続く道を足早に駆けていた。
ランプの炎が、走る勢いで僅かに揺れる。
久しぶりにノーネにも会える、とメモラーは友人に会える喜びで少しわくわくしていた。
入口からノーネに声をかけようと、少し息を吸い込んだとき、
奥から、自分の知らない声が聞こえてきた。
「ご苦労様、ノーネ」
思わず息が止まる。
さらに、それに続いて、ノーネの声も聞こえてきた。
「ああ、ありがとうなノーネ」
そのお互い親しげな口調に、我知らず顔をしかめるメモラー。
今、この時間の墓地には、自分とノーネ以外居てはいけないのに。
むっつりした顔のまま、そっと墓地の奥のほうをうかがい見る。
司祭のシーンが、墓地の片隅にあるベンチに座って、
ノーネにタオルを差し出しているところだった。
あのベンチも、両親の墓にくる自分のために、ノーネが置いてくれたものなのに!
そんなメモラーに気付かず、彼らは会話を続けていた。

「待たせちゃって悪かったノーネ」
ノーネが、タオルで汗を拭きつつシーンに言う。
「いいえ、こちらこそ、こんな時間になってしまって」
今日、シーンは墓地に葬る死者に、祈りをささげてほしい、と頼まれたものの、
昼間忙しく、時間が夕刻のミサの後になってしまった。
その所為で、ノーネの仕事も押してしまい、結局全部終わるころには、
すっかり夜になってしまった。
その上、ネーノの仕事も忙しく、シーンを連れ帰れる人も居ない。
シーンに、一人で夜の森の中の、細い道を歩かせるのはいささか危険でもある。
仕方なく、シーンはネーノの仕事が終わってこちらに迎えに来るか、
あるいはノーネの仕事が終わるまで、墓地の隅で待たざるをえなかった。
「気にしなくていいノーネ。
 自分は、夜遅いのは別に平気なノーネ」
すまなそうに言うシーンに、ノーネが明るくいう。
「ネーノもこないし…
 俺が司祭様を送るノーネ」
「でも、いつも墓地にくるえっと…メモラー君でしたっけ?
 あの子がもしかしたら来るんじゃないんですか?」
シーンが首をかしげる。
ノーネが、懐から時計を取り出し、時刻を見ながら言った。
「彼がいつもくる時間には、まだちょっと早いノーネ。
 鍵は一応開けておくし、送った後、またこっちにくるノーネ」
そう言って、お手をどうぞ、とシーンに手を差し出す。
シーンは、その手をくすくす笑いながらとった。
「ノーネってば、僕は別に女の子じゃないんだから…ありがとう」
二人が連れ立って門から出てくるのをみて、
メモラーはとっさに木の陰に隠れた。
笑いながら、シーンに話しかけるノーネ。
二人は何事かを話しつつ、メモラーの居る木の前を通り過ぎてく。

そこは、自分たちだけの、秘密の場所だったのだ。
メモラーの瑪瑙色(アガット)の瞳の奥で、一瞬、焔が燃えた。


「シーン!
 悪い、遅くなった!」
「…遅いですよ…」
頭を下げるネーノに、椅子の肘掛にもたれかかり、
頬杖をつきながら恨めしげに言うシーン。
フーンにこき使われて、とネーノはお決まりの言い訳を言う。
シーンは溜息をついた。
「…だから、僕もお城で仕事するって言ってるのに…」
「あ…いや、それは、なんというか。
 今日だけだから、大丈夫、もうこんなに遅くなることはないんじゃネーノ」
ネーノのペリドットの瞳が、動揺に中空を彷徨う。
一瞬狼狽したネーノに対し、僅かに不信そうに片眉を上げたものの、
シーンはそれ以上追求するのは止めたようだった。
「まあ、いいけどね…僕もさっき帰ってきたところだし。
 ネーノも、遅くなるときは先に言って」
言いながら、シーンは立ち上がり、ネーノに差し出された報告書にサインをしようと、
机の上を探る。
と、ふとその手が止まった。
「シーン?」
ネーノが訝しげに聞く。
「ネーノ、机の上…何か触った?」
シーンが首をかしげる。
ネーノもつられるように首をかしげた。
「いいや、何も。何故?」
「そうだよね、ネーノなら間違えるはず無いし…
 …ペンの置き場所が違ってる。他にも、少しずつ」
シーンが、ようやく見つけ出した万年筆で、サインをする。
ネーノは、報告書を受け取り、書類綴りにとじながら肩をすくめた。
「掃除したメイドが動かしたんじゃネーノ?
 …明日フーンに言っておく」

メモラーは、廊下の片隅で、息を整えていた。
あの後、シーンとノーネを先回りし、シーンの部屋に忍び込んだのだ。
ゆっくり歩く二人を追い越すのは、難しいことでは無かったが、
シーンの部屋に入ったところで、傍と困ってしまった。
自分のように、シーンの大切なものを壊してしまえと、そう思ったのだが、
シーンの大切なものが良くわからない。
司祭なのだから、聖書を破ろうか、と思ったのだが、
シーンは目が見えないのだから、聖書を破ったところで、たいしたことにはなりそうにない。
音を立てないように、こっそり部屋中を探し回っているうちに、
外から声が聞こえたのに慌てて、そのとき開けていた机の引出しの中で、
きらりと光った何かを思わず掴み、外に飛び出したのだ。
そのまま廊下を走り、何度目かの角を曲がったところでようやく立ち止まると、
大きく息を吐いて自分を落ち着かせる。
握り締めた手のひらを開いたそこには、鎖のついた、
小さな銀色のコインのようなものがあった。
「…これ…メダイユ?」
しゃら、とメダイユについている鎖を持ち、自分の目線の高さに掲げる。
メダイユのなかで、赤子を抱いて微笑む聖母が妙に腹立たしく思え、
そのまま投げ捨てようとしたが、向こうから聞こえてきた足音に、
とっさにそれを自分のポケットの中にしまった。
自分のいる角を、ネーノが足早に通り過ぎていく。
我知らず、心臓の音が高くなる。
ネーノが廊下の先の角を曲がったことを確認して、メモラーは、思わず大きく息をついた。


「…ってことが夕べあって」
「へぇ…変な話なノーネ」
次の日、シーンとネーノ、ノーネはいつものようにハーブガーデンの手入れをしながら
昨夜のことについて話していた。
部屋が荒らされた形跡があるのに、特に高価な物が盗まれた形跡もない。
ネーノが、フーンに訊いた所、掃除のメイドは、ずっと替わっていない、とのことだった。
念のためメイドにも聞いたが、掃除の時には特に変わったことは無かったとのこと。
「まあ、何も被害がなくてよかったノーネ」
ノーネがほっとしたように言うのに、ネーノが曖昧に口篭もった。
「あ…被害はあったというか、なかったというか…」
言いながら、ハーブの若芽をぷちり、と摘み取る。
「?」
首をかしげるノーネ。シーンが口を開く。
「その、机の一番上の引出しに入れておいたメダイユが無くなっていて…」
「メダイユ?」
「これくらいの、」
ノーネの疑問にネーノが自分の親指と人差し指で1センチくらいの小さな円をつくる。
「聖人とかの像が彫られてる、コインみたいなお守りじゃネーノ」
「昨日、お守りがほしいという人がいて、今日差し上げようと、
 鎖をつけておいたんです。
 メダイユ自体は特別高価なものでは無いし、
 それにまだありますから、別に対したことはないんですけど。
 鎖だって、その辺で売ってるような極シンプルなものですし。
 …そもそもメダイユのようなお守りは、
 必要な人にとってはそれこそ命より大切、という方もいらっしゃるでしょうが、
 必要ない人にとってはただのガラクタ以下ですから、
 おかしいな、と思って」
シーンが、言いながら軽く肩をすくめる。
「確かに…おかしな話なノーネ」
「だろ?」
「でしょう?」
三人は、そろって首を捻った。


メモラーは、遅い朝食を取り、裏庭のほうへ行こうと、中庭を突っ切っていた。
礼拝堂近くを通りがかったとき、ふとノーネがハーブガーデンの中に埋もれているのが見え、
夕べは出来なかったあいさつをしようと、そちらのほうへ近づいていった。
こちらに気付いてもらおうと、手を上げたとき、ノーネが先に顔を上げる。
自分に気付いたのか、とメモラーは少し期待したが、
ノーネの横手から、シーンが近づき、彼はそのままそっぽを向いてしまった。
中途半端な位置で、メモラーの手が止まり、そのまま力なく下ろされる。
拳を握り締めると、メモラーは自分でも良くわからぬまま、シーンに向かって走った。


「ノーネ、そっちは…わっ?!」
シーンがノーネに話しかけようとしたとき、
いきなり背後から何かが思いっきりシーンにぶつかってきた。
勢いで、よろめくシーン。
「あぶない!」
「司祭様!」
あわてて、ネーノとノーネはシーンを支える。
「誰だ!」
シーンが体勢の整えるのを手伝いながら、ネーノが首を回す。
と、すぐ側に少年が立っていた。
「メモラー?
 何故こんなところに…」
「ノーネさんの馬鹿!」
ノーネの科白の倍以上の声量で、メモラーが叫ぶ。
そのまま踵を返そうとするメモラーの右腕をネーノが捕まえた。
「おっと、待った。
 いきなりぶつかっておいて、それはないんじゃネーノ?
 シーンに謝れ、ボウズ」
「五月蝿い、放せ!」
メモラーは暴れるが、ネーノはしっかり掴んで放さない。
憤りにきらきら光る目でメモラーは、シーンを見ながら、叫んだ。
「謝るのはそっちだ!
 ノーネさんをとったくせに!」
ノーネが硬い口調で、口を開く。
「メモラー、司祭様を突き飛ばしたのは何故なノーネ?
 司祭様は、目が見えない、もしあのまま倒れていたら、
 大怪我をしてしまうかもしれないことくらい、判るノーネ?」
目に涙をいっぱいに溜め、俯くメモラーを見て、少しだけ口調を緩める。
「言いなさい、
 何故あんなことをしたノーネ?」
「…なんでだよ…」
「え?」
ぽつり、とメモラーが言うのを聞き漏らし、ノーネが聞き返す。
メモラーは顔を上げると、激しく燃える瞳で、シーンを正面から見据えた。
「何でノーネさんはあんなやつのこと庇うんですか!
 お前なんか、目盲(めくら)の出来そこないのくせに…
 お前なんか、死んじゃえ!」

「!」

場に、沈黙が落ちる。
聞こえるのは、僅かな木々のざわめき、鳥の声、そしてメモラーの激しい息遣い。
「てめ…
 シーンになんてことを!」
我に返ったネーノが憤り、メモラーの腕を掴む手に力をこめる。
メモラーは、ネーノの腕を外そうと、もがく。
「痛い!放せ!
 この馬鹿!」

ぱん、と高い音が響いた。

メモラーが動きを止め、呆然と、たった今ノーネに叩かれた左頬を押さえる。
ノーネが、いつにない厳しい顔で口を開いた。
「…メモラー」
びくり、と大きく震えるメモラー。
ノーネは右手で、今平手で打ったメモラーの頬を、彼の手の上からそっと抑える。
「今、君は司祭様に、言ってはいけないことを言った。
 例え理由が何であれ、相手に向かって『死ね』なんて言ってはいけないし、
 体の不都合を悪し様に言うのも、決して許されない」
少しかがみ、ノーネはメモラーと視線を合わせながら、いつにない真剣な表情で言う。
メモラーは、頬を押さえたまま黙って聞いていた。
「頬がいたいのは、すぐ消えるが、
 誰かに悪口を言われたときに感じたことは、ずっと消えない。
 …メモラーだって、誰かに
 『お前は背が低いから役立たずだ』なんていわれたくないだろう?」
言われ、メモラーは視線を落とし、自分の靴を見る。
背が低いことを気にして、精一杯大きく見せようと履いている、高い厚底靴。
顔を上げ、ノーネと視線を合わせる。
右目の場所には、えぐられたような傷跡があるだけだが、
メモラーを見つめる左眼は、柔らかなエバーグリーン。
きっと、今は無い右目も、左眼と同じ色だったのだろうな、とメモラーは思う。
なにより、いつも暗いところで会ってばかりだったから、
ノーネの瞳がこんなに澄んだ緑だったということに、初めて気付いた。
ノーネに、真剣に見つめられ。
「…ごめん…
 …ごめんなさい…」
メモラーの瞳から、大粒の涙がこぼれた。

ネーノが、息を吐いて、メモラーを掴んでいた手を放した。
謝りながら泣くメモラーを、ノーネが抱いてやる。
ふと、ネーノの顔色が変わった。
「?」
きょろきょろと周囲を見回すネーノを不信げにノーネが見る。
「ネー…」
「…シーンが居ない」
口を開きかけたノーネに、ネーノが呆然と言う。
「あっ…」
言われてノーネも、メモラーを抱えながら、首を伸ばして周囲を見回すが、
視線の届く範囲に、シーンの影も形も見えなかった。
「くそっ…いつの間に…
 探してくる!」
ネーノは、駆け出した。


シーンは立ち止まり、息を吐いた。
あの時、メモラーに言われたせりふが頭の中にこびりついている。

 『目盲(めくら)の出来そこない』

「…出来そこない…」
それは、昔、散々言われつづけてきた言葉。
口にした瞬間、胸の奥に、ズキリ、とした重い衝撃が走り、シーンは思わずよろめいた。
「おっと…危ないですよ」
科白と共に、シーンの身体を支える力強い腕。
「えっ?」
今、ようやく夢から覚めたような顔で居るシーンに、
腕の持ち主が苦笑したのが気配でわかった。
「こんなところで、何をしていらっしゃるんですか、
 司祭様?」
「その声…フーンさん?
 ここは…どこですか?」
メモラーの言葉に衝撃を受け、自分でも気付かぬ内に彷徨っていたらしい。
いつのまにかシーンが、今まで来たことの無い場所まできてしまっていた。
周囲を不安げにうかがうシーンに、あきれたようにフーンが言う。
「今どこに居るかもわからずに、ここまで?
 ここは中庭の、薔薇のトレリスの下ですよ…一体、どうしたんですか」
「…すみません…」
問い掛けるフーンに、暗い表情で俯き、謝るシーン。
フーンが溜息を吐く。
「…薔薇の下、ですからね。
 これ以上は聞かないことにしましょう
 …顔色が悪いですよ、司祭様。
 大丈夫ですか?」
「…大丈夫です、すみません」
「大丈夫じゃないでしょう、顔が真っ青です。
 部屋までお送りましますから、すこし休まれては?」
「すみません…」
三度謝るシーンに、フーンは再び大きく嘆息した。


薬を持ってこようか、というフーンの申し出を辞退し、静かに扉を閉じる。
シーンは、椅子にとりあえず座ろうとしたのだが、
うっかり距離の感覚を間違ったのか、椅子を通り過ぎてしまい、机の角にぶつかった。
がたん、と音を立てて、転倒しそうになるのを、机にあやうく手をつき、こらえる。
その拍子に、机の上においてあったものに手が触れた。
シーンは、感触で、それがナイフだと気付き、それを握り締めると、
衝動的に、

己の腕を、

切った。


「シーン!
 何処だ!」
ネーノは、シーンを探して、とりあえず走っていた。
いったいいつの間にあの場所を離れたのか、気付かなかったのは自分のミスだ。
少なくとも、そんなに遠くには入ってないはずだと見当をつけ、
礼拝堂の周りや、森の入口近くを探す。
運が悪いのか、近くに人気が無いため、誰かに聞く事も出来ない。
ネーノは踵を返し、今度は中庭の方に急いだ。
迎賓館の建物の角を回ったとき、その向こうから出てきたフーンとぶつかりそうになる。
「なっ?!」
思わず声をあげるフーンにかまわず、ネーノはこれ幸いと、
フーンに噛みつかんばかりの勢いで聞いた。
「おい、フーン!
 シーンを見なかったか?!」
「司祭様?
 見たが?」
目を丸くしつつ答えるフーンに、さらに迫る。
「見たのか?
 何処で?
 シーンは、何処に居た?!」
いつになく真剣にせまるネーノに、些か気押されながら、フーンが答えた。
「落ち着け、ネーノ。
 たった今、部屋まで送ってきたところだ」
「部屋か」
答えを聞き、すぐさま走り出したネーノに、後ろからフーンが声をかけた。
「おい、一体何が…」
「フーン、悪い、礼を言うんじゃネーノ!」
ネーノが走り去りながら大雑把に礼を言うのに、
フーンはもう今日既に何度目かになる溜息をついた。
「…どいつもこいつも、何なんだ、全く…
 喧嘩でもしたのか、あいつらは」
だとしたら、彼らの態度から見るに、ネーノの方が悪者だ。
フーンは、そう勝手に結論付けると、仕事に戻るため、城へと歩き出した。


「シーン!
 いるのか?」
ネーノが、息せきってシーンの部屋の扉を開ける。
そこに見たものは、
左腕から血を流し、机の前の床に座り込むシーンだった。
シーンは傷口を抑えもせず、ゆっくり首を回して扉の方をぼんやりと見る。
「シーン!」
慌てて駆け寄り、自分の首のタイを外すと、
それをシーンの左手首の傷に当て、血を抑える。
「…ネーノ…
 ごめん…ごめんなさい…」
「…謝るな…
 メモラーに言われた所為か?」
ネーノが、シーンの手首を片手で抑えながら、
床に落ちている卓上ナイフを念のため遠くにやる。
シーンは、ネーノの科白に首を振った。
「ううん…多分、違う。
 理由は…自分でもよくわからない。
 ただ、手にナイフが当たった瞬間、
 切らなきゃ、って思ったんだ」
シーンが俯いたまま答える。
ネーノはシーンの手首からタイを少し外し、傷の具合を見る。
傷はそんなに深くはなく、血ももう止まりかけていた。
卓上ナイフは、刃先が丸く、刃渡りが小さい為、そんなに深くは切れなかったのだろう。
不幸中の幸いと、ネーノは息を吐く。
「今回は傷が浅くてよかったけど…
 もしかしたら死んでたんだぞ?」
「ごめん…」
ますます俯くシーンに、ネーノは思わず手を伸ばしかけ、
その手が血で汚れているのに気付き、一瞬迷って、結局手を引っ込めた。
代わりに、口を開く。
「シーンが死んだら、悲しむやつがこの城には大勢居るんだ。
 いつもミサに来てくれる人たちや、もちろん殿下も。
 ノーネだって、シーンの墓を掘るのは嫌だろうし。
 第一、俺は…」
ネーノは、そこで一端口を噤む。
「ネーノ?」
「俺は、シーンが手首を切った、
 なんて親父に知られたら…ぶっとばされるんじゃネーノ」
沈痛な声で言うネーノに、シーンが僅かに微笑んだ。
「ごめん、本当に。
 もう切らないって、昔おじ様にも約束したのに…
 約束やぶっちゃったし、僕もぶっとばされそう」
そう言って、シーンは自分の手首に視線を向ける。
そこには、もう薄く、ほとんどわからないが、実は何本かの古い傷跡がある。
昔、シーンが自傷行為をしていた頃の爪痕である。
ネーノが、軽く肩をすくめた。
「いや、親父はシーンには甘いからな…
 薬箱とってくる」
言って、ネーノは立ち上がる。
ネーノが離れる気配を感じながら、シーンは口の中でそっと祈りの言葉を呟いた。
「He is my shepherd ,
 His sheen light on my way ;
 I'm walking with …」

長椅子に並んで腰掛け、ネーノはシーンの手首の手当てを黙々とする。
「ネーノ…」
「…なんだ?」
シーンがふと思い出したように、沈黙を破った。
「あの、メモラー君って子…
 僕とノーネが仲良かったのが、羨ましかったんじゃないのかな」
「はっ?」
ぽかん、とネーノは包帯を巻く手を止め、シーンを見る。
真剣な表情で、シーンは続けた。
「自分の友達が、自分の知らないところで、他の人と仲良くしてて、
 思わず嫉ましくなったんだと思うんだ…
 ほら、彼言ってたでしょう、
 『ノーネをとったくせに』
 …って。
 アレはきっとこういう意味なんじゃないかと思うんだけど」
ネーノも、言われてメモラーの言動を思い返す。
言われてみれば、確かに思いあたる節もある。
「でも何故シーンだけ?
 それなら俺もなんじゃネーノ?」
「それはきっと、僕の目が見えないから」
首を捻るネーノに、シーンが答える。
「きっと、どこかでノーネが僕の手を引いてくれている所を見たんじゃないかな。
 それが、多分ものすごく仲良くしているように見えたんじゃないかと思うんだ。
 ほら、手を繋ぐと普通より相手との距離が近くなるでしょう?」
「ああ…そうか、なるほど」
シーンの言葉に、合点したように頷く。
確かに、人との距離は、親密になればなるほど距離が短くなる傾向がある。
それで、メモラーが、自分とノーネよりも、シーンとノーネの方がずっと仲が良い、
と勘違いしたのも無理はないだろう。
「……」
「どうした、シーン?」
シーンが、さらに何かいいたげにしているのを見て、ネーノが促す。
「…うん…
 なんか…嫌だなって…」
「何が?」
「メモラー君に言われたことがずっとここで渦巻いてて」
そう言って、シーンは自分の胸を抑える。
「今メモラー君に会ったら、
 なんか…嫌な態度をとっちゃいそう。
 そんなのいけないってわかってるけど、
 どうしても、抑えきれない」
シーンの手首に、包帯を巻き終え、ネーノはシーンの肩に、ポン、と軽く手を置いた。
「ああ、いいんじゃネーノ、それでも」
「え?」
「『神の子』のイエス様だって、怒りに駆られて怒鳴ったり、
 思わず弱音を吐いたりもしたんだから、さ。
 シーンがそうだっても、誰も責めたりしない…
 むしろ俺は安心したんじゃネーノ、
 シーンもやっぱり普通の人間だったって」
そう言って、にっと笑いかけるネーノの気配を感じ、
シーンは自分の肩に置かれた手を軽く払った。
「やっぱりって何それ?
 僕が普通の人じゃないとでも思ってたの、ネーノは?
 …でも、そうだね、ありがとう」
少し楽になった、とシーンが軽く笑うのに、
ようやくネーノは安心したようにほっと息を吐いた。

ネーノが薬箱を片付けようと、立ち上がったとき、
とんとん、とドアから控えめなノックの音が聞こえた。
「見てくる」
ネーノがドアを開けると、そこにはノーネが立っていた。
「執事様に、部屋に戻ってるって聞いたノーネ。
 …司祭様に、話があるノーネ」
ノーネはそう言って、ちらりと自分の横にたつメモラーを見る。
ネーノも、眼を真赤にしたメモラーを少し見て、口を開いた。
「シーンにちょっと聞いてくる…いいか?」
無言で、こくり、と頷くメモラー。
ネーノは一度扉を閉めた。
「ネーノ?
 誰だった?」
シーンが聞く。
「ノーネと、メモラーだ…どうする?」
「…入ってもらって」
一瞬逡巡したものの、シーンは入室の許可を出す。
ネーノはもう一度ドアを開けた。
「お邪魔しますノーネ」
「…お邪魔します」
二人が入ってくる。
メモラーは、そのまま真っ直ぐ進み、シーンの座る長椅子の前に立つと、
「ごめんなさい!」
真っ先に謝り、深く頭を下げた。
メモラーのあまりの勢いに、思わず軽く目を見張るシーン。
「本当に、ごめんなさい…
 謝っても、謝りきれることじゃ無いけど、
 ごめんなさい」
涙声で言うメモラーに、そっとシーンが手を伸ばした。
「顔を上げて、メモラー。
 たいしたことは無かったんだし、
 大丈夫だから」
「…それだけじゃなくて…」
続けるメモラーに、皆そろって首をかしげる。
「これ…司祭様の部屋から盗ってきちゃったんです。
 ごめんなさい。」
言って、シーンの手にメダイユを渡す。
「シーンの部屋に忍び込んだのはお前だったのか」
あきれたようにネーノが言う。
「メモラー?」
シーンから声をかけられ、メモラーは一瞬大きく震えた。
「君がしたことは、決して善いこととはいえないけど、
 こうして、心から反省し、謝ることができるというのは、
 君が善い人であるということ。
 顔を上げて、メモラー。
 僕は、君を赦しますよ」
がばり、と顔を上げ、信じられないような表情でシーンを見るメモラー。
「赦してくれるの?
 僕、あんなこといったのに…盗みだって…」
言いながら、だんだん俯いていくメモラーの気配を察し、シーンが言う。
「もちろん。
 でも、二度としてはいけませんよ?」
シーンが、柔らかく微笑むのに、メモラーは、再び涙をこぼした。

泣きじゃくるメモラーを、シーンが隣に座らせ、優しく背中を撫でる。
その様子を見ながら、ノーネがネーノに小声で聞いた。
「…ところで、司祭様の服についてる血痕はなんなノーネ?
 それに、ネーノ、いつものタイは?
 さっきまではつけてたノーネ」
ネーノは少し口篭もったが、ノーネに隠していても仕方ないと思い、口を開いた。
「ここ…」
言って、自分の左手首を差す。
「切ったんだ、衝動的にやっちまったっていってた。
 傷はそんなに深くないから平気だったけど。
 タイはそのとき、血を抑えるのに使ったんじゃネーノ。
 ああ、他のやつには、言うなよ?」
「…どんどん秘密が増えてくノーネ」
肩を落とすノーネの背を、ネーノが軽くはたいた。
「それだけ信頼してるってことじゃネーノ」
じろり、とノーネが視線だけ動かしてネーノを見る。
ネーノも、同じようにノーネを見る。
ノーネのエバーグリーンの瞳と、ネーノのペリドットの瞳がかちあった。
「…今度酒おごれ」
「了解」


メモラーは、墓地への道を急ぐ。
暗い小道、ランプの光だけが明るく揺れる。
墓地の入口で、一端息を整え、それから奥に向かって呼びかけた。
「ノーネさーん、ノネスティーさーん。
 居ますかー?」
がさがさと、草を踏み分ける音が聞こえ、続いてノーネの姿が見えた。
「どうしたノーネ…
 墓でも必要になったノーネ?」
「違います、そうじゃないです。
 これ、司祭様たちから差し入れだそうですよ」
そう言って、メモラーは抱えていた籠をノーネにさしだす。
「何が入ってるんですか…
 あ、クッキーだ。
 こっちの水筒はお茶みたいですね。
 この香りは…ハーブティー…カモマイルかな?
 これは…お酒?」
酒のビンを取り出し、妙な顔をするメモラー。
シーンがお酒を入れるはずはないから、きっとこれはネーノからだろう。
ランプの炎に照らされるビンのラベルは、かなりの高級品であることを示している。
ノーネは、くっくっと含み笑い、メモラーの手から酒のビンを取り上げた。
「これはメモラーは駄目なノーネ。
 クッキーは、一緒に食べよう」
「やった!
 …あ、有難うございます」
思わず小さく喜んでから、慌てて礼を述べる。
笑いながら、ノーネが、ふと自分の手にもっているビンをひっくり返すと、
ラベルの隅に、小さく文字が書いてあった。
ランプの光に透かし、何とか読み取る。
「…Thanks」
「?
 お礼を言ってるのは僕ですよ?」
何か礼を言われるようなことをしたのか、と片眉を訝しげに上げるメモラーに、
ノーネが首を振った。
「いや、そうじゃなくて…
 まあ、何でもないノーネ。
 いこう」


青い静かな夜、空の月に雲がうっすらとかかる。
二人の影は、闇の中へと消えていった。

  end.


・ペリドット…緑色をした宝石の一種。転じて、その宝石のような緑のこと。明るい黄緑色。
・エバーグリーン(ever green)…日本語で、常盤緑。常緑樹の葉のような濃い緑のこと
・フーンの科白、『薔薇の下(under the rose)』とは、『秘密、内緒』を意味する言い回し。
 トレリスとは、つる性の植物を這わせる為の柵の一種。


**
あらビックリいつの間にか結構な長編に。
今回はせご様の「Juvenile Smile」から勝手に妄想した(リスペクトとはいえなさげ…)
ストーリだったりします…色々ごめんなさい。
今まで散々好き勝手に、いろいろやりまくっているので、もう今更ですか、そうですか。


…書いてて楽しかったです マル
 


戻る