† 青闇の記憶 † 


これは確かに、罪だ。

ぼんやりと、神に滅ぼされたソドムとゴモラの話を思い返す。
奈落の底から這い上がってくるような悪寒に体を震わせた。
あまり広くない部屋にいまだ立ち込める、異質な臭い…汗と、血と、
そして

雄、の、

「っつ!」
力の入らぬ体を起こそうと下に手をついた瞬間にぬるりとしたものに触れ、慌てて手を引く。
そのとたんバランスを崩し、再び固い床に倒れこんだ。
その衝撃で申し訳程度に置かれた毛布から埃が舞う。
散々自分を陵辱した男…父親と世間では呼ばれる存在…は、行為が終わると
さっさと部屋から出て行ってしまった。
「この出来損ないめ」
行為の際中言われつづけた言葉が頭の中を巡る。
確かに自分は、出来そこないに違いない。
何しろあまり人には言えないきっかけ(たまに現れる自称親切な人が
丁寧に教えてくれた)で生まれたうえに、さらに重ねて目が不自由なのだ。
起き上がることをあきらめ、ころりと床を転がって、天向く。
窓の無い、昼でもなお暗い奥座敷。
目の見えない自分には、昼だろうが夜だろうがたいして関係無いだろうが。
それでも、かすかに記憶の中にある太陽の暖かさはとても懐かしい。
ふと、冷たい床に、振動が伝わってくるのに気付いた。誰か来たらしい…
この足音は。
「…母様…?」
一直線にこちらに近づく気配。
悲鳴をあげる体を叱咤し、無理矢理体を起こす。
が、立ち上がることは叶わず、そのまま床にへたり込んだまま。
「まだそんなみっともない格好をして!
 この恥知らず、出来損ないが!」
母親の甲高い声とともに、何かで頬を張られる。そのまま、二度、三度。
どうやら自分の顔は彼女に良く似ているらしく、
それが彼女には相当気に入らない様で、しょっちゅう顔を叩かれる。
もっとも、天気が悪いから、という理由で叩かれたこともあるから、
実際自分を叩ければ理由はなんだっていいのだろう。
「お前なんか生まれてこなければ!
 いまいましい、出来損ないのくせに!
 私を母と呼ぶな!
 お前など、私の子などではない!
 とっとと死んでしまえ!」
ふと、彼女の手が止まる。
「…その目は何のつもり…?」
自分でどんな表情をしているのか、さっぱり見当もつかないが、
たまたま目線があったのだろうか。
こんどは頬だけではなく、体中を叩かれる。
抵抗はしない。すれば、さらに酷く打たれるだろうから。
だが、例え抵抗しなくても、彼女の気が済むまで打たれることは今までに散々学んだ。
結局、ただひたすら無言で耐えるしかなかった。
なるべく彼女を刺激しないよう、痛みに歪みそうになる表情も無理矢理押し殺す。
「私を憐れんでいるの?
 出来損ないの癖に、いい気なものね!
 私のことを、兄と姦通した馬鹿な女と、
 そう思っているのでしょう?!
 言うなら言えばいい、
 神に背いたこの娼婦め、と!
 …お前こそ実の父と姦通する悪魔の子くせに!」
激昂した彼女にますます激しく打ち据えられ、とうとう意識が遠くなっていった。



「オヤジー…あ痛」
「オヤジではなく父上と呼べ、バカモン」
「ハーイじゃネーノ」
適当に返事をする子供と、それに再び無言で鉄拳を入れる父親。
ある屋敷の応接間。
ネーノは、異端審問官の父親に連れられて、この屋敷にきていた。
「何でオレまで来なきゃいけないのか聞きたいんじゃネーノ」
「お前ももう12だろう。
 父の仕事を見ておけ」
ネーノが父親の仕事を見るのはこれが初めてで、
確かにどんな仕事をしているのかに興味はあったものの、
長いこと待たされすぎて、いささか厭きてしまったらしい。
暇つぶしとばかりに、父親にそっと話し掛ける。
「今日は一体どういうことをするのか聞きたんじゃネーノ」
「来る前に話しただろう」
「…確認の為にもう一回」
一蹴する父親に食い下がるネーノ。
「この屋敷の当主に対し、男色の疑いがあるという通達があった。
 その調査だ」
父親は溜息をつき、扉のところに立つ使用人に聞かれないよう、
声を潜めて大雑把に説明した。
「…分かりやすい説明どーもじゃネーノ」
ネーノは再び手持ち無沙汰になってしまい、
居心地悪げに、もそもそとソファーの上で体を動かした。
「…父上、ちょっとトイレに行きたいんじゃネーノ」
「かまわん、いってこい」
父親の了承に、席を立つ。
トイレに行く、とは部屋を抜け出すためのただの方便である。
扉を出たところで、周りを見回すと、ネーノは手洗いがあると教えられたほうとは
反対の方向に駆け出した。
人に見つからないように、柱や物陰などに隠れながら、屋敷中を冒険する。
「…おっと」
再び前方から人の近づく気配がし、慌てて置き物の陰に隠れてやり過ごす。
ネーノは、まるでじぶんが悪い竜が宝を守る秘密の洞窟を探険する
勇者になったかのような刺激的なスリルに、わくわくしていた。
「あれ…?」
ふと、前方の壁から女性が出てきた。
ここからは置物が邪魔で見えないが、そこにドアがあるのだろうか。
そう思い、ネーノは女性が行ってしまってからそっと近づいて見ると、
なんと壁自体がゆっくりと回転し、ちょうど閉まるところだった。
「隠し扉、じゃネーノ」
生来の旺盛な好奇心が首をもたげ、ネーノは閉じる寸前の扉に滑り込んだ。

扉の向こうは、壁に窓は見当たらないものの、何処からか光が漏れているのか、
ぼんやりとした明るさがあった。
その薄暗さに、ネーノは妙な不安を感じる。
が、好奇心の方が強かった。
奥に続く通路をそっと移動していくと、また扉。鍵はかかっていない。
頭の中の警鐘は、既に最大のボリューム。
開けてはいけない、と心のどこかで声がする。
が、ネーノはそれを無視して、そっとドアノブに手をかけた。
扉の向こうは、さほど広くない、がらんとした空間だった。
妙にねっとりとした空気に体を震わせたネーノは、
部屋の隅に自分と同じくらいか、少し幼いくらいの子供が倒れているのに気付いた。
「大丈夫か?」
慌てて駆け寄り、そっと肩をゆする。
子供は、ネーノが近所の悪友と喧嘩して負けたときより、もっと酷い怪我をしていた。
シャツ一枚では寒かろうと、ネーノは自分の上着を脱いで子供の肩にかけてやる。
ゆっくりと目を開けた子供は、ネーノに気付くと怯えたように小さく声をあげた。
とっさに逃れようと、しかしそれ以上は下がれずに、壁に張り付く。
己に対する恐浮しか浮かんでいない貌に、ネーノは僅かにたじろいだ。
「何もしない、何もしないから、
 怖がらなくてもいいんじゃネーノ」
優しい声で語りかけると、黒目がちの大きな瞳がネーノのほうを向き、
不思議そうに首をかしげた。
「俺の名前はネーノ、君は?」


「いいえ、私はそんな事をしたことなどありません」
心外だ、といわんばかりに実を見開く当主に、審問官が詰め寄る。
「しかし、貴方と少年がともに夜、娼館の前を歩いていたという目撃証言が有ります」
異端審問官の追及を、笑みを浮かべつつのらりくらりと交わす当主。
「おや、そんな曖昧な証言だけで、私を異端者と見なすおつもりで?」
たしかに当主の言葉どおり「歩いていた」だけでは些か曖昧すぎる。
ただ通りがかっただけかもしれないのだから。
証拠がない限り、これ以上の追及は無理だろう、
とネーノの父親は諦めたようにため息をついた。
「…そうですね。これ以上は確証がありませんし、
 また日を改めて」
「オヤジ!」
言いかけた自分の科白を遮って、挨拶もなしにいきなり飛び込んできた
息子の無作法に頭を抱えつつ怒鳴る。
「バカモン、他人の家で不躾だぞ、ネーノ!
 今まで何処に行っていた!」
「そんなことより、女の子が閉じ込められてたんじゃネーノ!」
ネーノの台詞に、当主の笑みが消えた。
続いて、ネーノが手を引いて引き摺るように連れてきた子供を見て、蒼白になる。
「この子、奥の部屋に閉じ込められてたんじゃネーノ」
「ネーノ、この子は女の子ではなく男の子だ」
審問官は、息子の陰に隠れるようにして立つ少年を観察しながら言う。
ネーノの上着の下に着ている、彼の薄汚れたシャツの間から見える華奢すぎる体には、
青痣や鞭の跡のようなものが生々しく残り、明らかに虐待されていたと分かる。
審問官の近づく気配に、体を硬くする少年。
彼と目線を合わせようと屈みこみ…審問官は、ふと違和感に片眉を跳ね上げた。
「…君は、目が見えないのか?」
問いに、硬い表情のまま無言で頷く少年。
「名前は?」
続く問いには、ふるふると首を振った。
「名前を聞いても、答えないんじゃネーノ」
ネーノが答える。
「そうか…分かった、
 ネーノ、この子を連れて先にうちに帰っていろ」
審問官はそういい、ネーノが少年を連れて部屋を出るのを見送ってから、
ゆっくりと、当主を振り返った。
「…どういうことですか?
 じっくりお聞かせ願いましょうか」


「君の名前は『シーン』だ」
「?」
唐突に言われた台詞に、少年が首をかしげる。
審問官が少年の手を取り、その手のひらにゆっくり文字を書いた。
「文字は分かるかい?
 S、H、E、E、N。
 『光り輝く』という意味だよ」
「綺麗な名前なんじゃネーノ、『シーン』」
ネーノが気に入ったように繰り返す。
ネーノは、先日屋敷から連れ出されたこの少年を気に入ったらしく、
お兄さんぶって色々面倒を見ていた。
虐待されていた経験がそうさせるのか、この少年はめったに口を開かず、
表情もあまり変えない。それどころか、他人、特に大人が怖いのか、
話し掛けようとしたとたん逃げられてしまうこともしばしばだった。
が、少年は、どうやらネーノには懐いたようで、
ネーノに対しては怯えた様子を見せることは少なかった。
シーンと名づけられた少年が、じっと手のひらを見つめる。
「どうかした、シーン?」
ネーノが不思議そうに聞く。
「名前…」
「そうだ、君の名前だ」
小さく呟くシーンに、審問官が頷きながら言う。

「…ありがとうございます」

ふわりと綻ぶように、シーンが笑った。



「…ノ、ネーノ!起きるノーネ」
「ダメですよ、ネーノは寝汚いんだから、起こすときはこうしないと」
そう言ってシーンは体を乗り出すと、ネーノの耳を思いっきり引っ張った。
「あ痛てててて!」
いきなりの激痛に、飛び起きるネーノ。
「せっかく良い気分で寝てたのに…酷いんじゃネーノ」
ネーノが文句を言いながら、体を起こせばそこは、見慣れた礼拝堂脇の小部屋。
ネーノはシーンの手伝いで、薬草を種類ごとに分けていたのだが、
いつの間にか寝てしまったらしい。
「あーあ、ぐしゃぐしゃなノーネ」
「最初からやり直してくださいね」
あきれたようなノーネの台詞に、こちらを向きもせずに黙々と、ポマンダー(ハーブ等で
作る魔除けのお守り)を作りながら、間髪いれず言い放つシーン。
「…昔は何処へ行くにも俺の後くっついてきてて可愛かったのに…
 司祭様ってば冷たいんじゃネーノ」
「僕ってば冷え性だから」
軽口をたたけば、それに軽妙な答えが返ってくる。
ネーノは行儀悪く机に肘をつきながら、楽しげにノーネと喋りながら
オレンジにクローブを一つ一つ丁寧に刺していくシーンの様子をそっとうかがう。
初めて見たときは、まるで地獄の絶望のような色だと思った黒い瞳は、
こうして日の光にすかしてみれば、僅かに青くも見え、不思議な色彩をしている。
穏やかな、優しい夜の色だ。
「ネーノ、ちゃんとやってる?」
「やってるやってる」
「嘘なノーネ」
「あ、こら、オッサン、ばらすんじゃネーノ!」

シーンとノーネに笑いながら答えつつ、ネーノは作業を再開した。

   end


ソドムとゴモラ…男色の町として神に滅ぼされた(創世記18−19章)
因みに英語でソドミーと言えば、男色、最近では暴力的な異常性行為もさす。
ポマンダー…昔からヨーロッパ各地で、魔除けとして作られる。
オレンジにクローブを刺していき、セージやマジョラム、タイムなどの
スパイスパウダーをまぶし、陰干しして作るオレンジポマンダーが一般的。


**
『緋雨の祈り』続編。なんつーか、全方向に向かってごめんなさい。
因みに「兄と姦通した〜」は正確には「義理の兄」
シーンの母親の姉の夫(婿養子)です。語感が悪くて入らなかった。
あ、「自称親切な人」はシーンの母親の姉のことです。

ところで「Sheen」って日本語で言えば「照光くん」とか「光輝くん」かしら(笑)


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