† 緋雨の祈り † 


「…っはあぁ…」
思わずノーネの口から盛大に溜息が漏れた。

ここは、城の敷地の隅に建っている礼拝堂脇の小部屋。
ミサに使うこまごまとしたものが置いてあるものの、きちんと整頓されているため、
あまり物が多い印象を受けず、実際の部屋の大きさより広く感じる。
部屋にある家具自体も、テーブルと椅子と低い棚くらいで、
高い家具がないことも、部屋を大きく見せている要因の一つだろう。
司祭の控えとして使われているこの部屋は、普通なら墓守のノーネがいる場所ではない。
が。
最近ノーネは暇だった。
とんでもなく暇だった。
以前あまりに暇で、礼拝堂でぼーっとしていたら、司祭のシーンによばれて
ここでお茶をご馳走になったのがきっかけで、最近はほとんどここに入り浸っていた。
しばらく前までは、モラ王子やその側近達が、朝昼晩老若男女問わず
虐殺しまくっていた所為で、墓穴を掘りまくる忙しい日々が続いていたのだが、
最近ぽろろとかいう妙に可愛らしい名前の死体処理係―――死体を頭から
丸呑みするとか、骨も残さずバリバリと喰い齧るとかとにかく死体が残らない方法で
処理してしまうらしい―――を雇い入れたとかで、このところのノーネの仕事と言えば、
この礼拝堂の裏手にある墓地の見回り程度しかなかった。
それも朝と夕方回れば事足りてしまう。
昨日のノーネがやったことと言えば、朝の見回りでカラスを追い払って、
夕方の見回りで猫を追い払って。
…後はここでぼーっとしていただけのような気がする。
今日は朝から天気が悪く、見回りに行く気になれなかったので、
見回りは自己休業(つまりサボり)で、ずっとここにいた。
ふと顔を上げた瞬間に、とどめの如く低くたれこめるような雨雲が目に飛び込んで、
思わず暗鬱となるノーネに、くすりとこの部屋の本来の主であるシーンが微笑し、
ノーネに柔らかな口調で聞いてきた。
「どうかしました?」
己の正面に座るくシーンをノーネがちらりとみる。
こちらを見るシーン…だが、その黒い瞳の焦点はノーネから僅かにずれている。
そういえば、この小奇麗な顔をした司祭殿は盲目だっけか、とぼんやりとどうでもいいことを思う。
もっとも、実際は明暗の区別くらいはつくらしく、モノクロームな世界が僅かに見えているらしいが。
「最近暇だなーと思ったノーネ」
ぽけーっと天井を見ながら言うノーネ。
ぼさぼさの髪に、えぐられた右目を無理に閉じ合わせたような、引き攣れた古い傷跡。
うだつの上がらない風貌が、冴えない表情の所為で余計にうっそうとして見える。
「墓守が暇なのは皆が健康に暮らしていて、長生きをしている証拠でしょう?
 いいんじゃないですか?」
小首を傾げながら言うシーンに、おや、と違和感を覚えるノーネ。
この男は、城の中で繰り広げられる阿鼻叫喚の地獄絵図を知らないのだろうか。
確かに、シーンはめったに城の方まで行かず、ほとんど礼拝堂や、その付近で過ごす。
それにシーンと、その助手のネーノがこの城に来たのは結構最近だ。
が、しかし御年15になるこの国の後継ぎのモラ王子ことモラルトール殿下が、
先代の父王の崩御と同時に魔女狩り、と称して姉のツースネルダ姫と共に
気に入らないものを片っ端から殺しまくっている、というのはこの国に住む者なら
三歳の子供でも知っていることである。
最初は、『呪い殺された』と噂のたった父王の復讐にか、この国に住んでいた
『魔女』と呼ばれていた、あるいはそう噂されたものたちを拷問していた。
それだけなら、この魔女狩りの血色(あか)い風の吹き荒れる御時世、
たいして珍しくもない話なのだが、いつのまにかエスカレートしていき、
いまではごくごく普通の一般市民ですら対象になっているという。
前に流された血が乾かぬうちにまた新たに血が流されるものだから、城のあちこちから
消えぬ血臭が漂い、いつしかこの城は紅血(ローテンブルート)城と呼ばれるようになり、
モラ王子は『血狂い』と囁かれるようになった。
「司祭様は…」
言いかけたノーネの科白を遮るように戸口からノックが聞こえた。
「はい?」
ノックに対して返事をするシーンと、口を噤むノーネ。
こきこきと首を鳴らしながら入ってきたのは、シーンの助手兼異端審問官のネーノだった。
上に羽織っているコートの肩口が僅かに濡れている。
「今日の城での仕事終わりっじゃネーノ」
目の悪いシーンの代わりに、城内の仕事はほとんどネーノが代行している。
「今日もフーンのやつにこき使われたんじゃネーノ」
コートをハンガーに架けて、人使いの荒い執事に対して愚痴りながら、
どっかりとシーンの隣の椅子に腰をおろすネーノの動きにつられるように、
何処からともなく漂う硝煙と錆びた鉄のような臭い。
「ご苦労様、ネーノ…もうすぐ夕刻の礼拝だけどね」
それに気付いているのか居ないのか、シーンがネーノに紅茶を差し出しながら言った。
「うわ…勘弁してほしいんじゃネーノ?」
紅茶を啜りながらうんざりしたように言うネーノ。
とはいえ、その表情はあまり嫌がってるようにはみえず、口元には笑みが浮んでいる。
シーンが懐から時計を取り出し、文字盤をなぞって時間を確かめながら立ち上がった。
「僕はもう礼拝の準備しに行くけど、遅れないようにね。
 後で報告を聞かせて」
「手伝うノーネ」
「あ、待った、ノーネ、話があるんじゃネーノ」
立ち上がりかけたノーネをネーノが袖をつかんで引き戻す。
「でも」
ネーノとシーンを交互に見るノーネに、シーンが雰囲気を察したのか、笑いかけた。
「大丈夫、一人で。
 じゃ、いってきます」
ぱたり、とドアが静かに閉じられた。
それを確認して、ネーノがようやくノーネの袖から手を放した。
「一体何なノーネ」
「あんた、シーンに何言った?」
ネーノが普段いつも浮かべている笑みを消し、真剣な表情でノーネに詰め寄る。
こういう表情をするとこの男は妙に迫力がある。
僅かに片眉を吊り上げるノーネ。
「何って…何のことなノーネ?」
「しらばっくれんじゃネーノ。
 言おうとしてただろ?…城のこと」
とすると、ネーノは城で行なわれている虐殺のことをシーンに全く知らせてない、と言うことか。
「シーンは何も知らない。
 何も知らせてない。
 余計なことを言わないでほしいんじゃネーノ?」
「じゃあ、司祭様は本当に城で行なわれていることを知らない?」
ノーネの科白に、無表情で頷くネーノ。
「シーンには、城で魔女裁判が行なわれているから、
 その尋問の立会いに行っているとしか言ってない」
尋問と言えば聞こえは良いが、実際は拷問だ。
ありもしない『魔女の自白』とやらを引き出すため、しばしばおぞましい手段が使われる。
例えば、焼けた鉄の上を歩かせたり、体の末端を切り取ったり、体中に針をさしたり。
だが、それは一般的な魔女審判の場合。
この城では、ただモラ王子の趣味と快楽の為だけに人が殺される。
ネーノは、その虐殺の片棒を担いでいるのだろう。
一度だけ、ネーノの『城の仕事』を見たことがある。
正確無比な射撃で、相手の急所を僅かに外したところを打ち抜いていた。
もちろん、じわじわと嬲り殺す為に、である。
王子の指示どおりのところに、次々と弾を無表情に打ち込むネーノと、
その様子を笑いながら見ていたモラ王子に戦慄を覚えた記憶は
ノーネの中に悪夢のようにしっかりこびりついていた。
「でも、いつかはバレるノーネ」
「それくらい判ってるんじゃネーノ…
 それでも、なるべく知らせたくない。
 シーンは昔両親に虐待されてて、ようやく立ち直ったってのに、
 わざわざ刺激したくないんじゃネーノ」
「…虐待って…蹴ったり殴られたり?
 食事をもらえずに閉じ込められてたりとか、そういうノーネ?」
「それもあるし、あと性的虐待もなんじゃネーノ」
「っ?!」
さらりと言われた単語に息が詰まる。
言葉を淡々と継いでいくその顔は、普段の人好きのする笑みを浮かべるネーノとは、
全くの別人のように見えた。口調まで違う気がする。
何の表情も垣間見れないその横顔をじっと見つめるノーネ。
「シーンはもともと余り人に言えないようなきっかけで生まれたらしくて、
 その上目が悪いだろ?
 5歳かそれくらいまでずっと地下牢に閉じ込められてたらしい。
 そこから出された後も、日の差さない奥座敷で、
 12のときに修道院に入るまで、ほとんど人とまともに話したことがなかった…って」
「それはまた…ハードな少年時代なノーネ…」
なんといってよいのやら、困惑したように呟くノーネ。
「でも何故俺に言うノーネ?」
ずい、とネーノがノーネに向かって身を乗り出す。
「あんたは、シーンを除けば、この城の中で唯一血の匂いがしない。
 だから話した。あんただけだ。この城の中でマトモなやつは。
 他のやつらは、俺も含めて血に狂いすぎている」
「…確かに俺の仕事は血の抜けた死体相手だし、
 死体は殺そうと思っても殺せないノーネ」
軽く肩をすくめるノーネ。ネーノが息を吐き、どさりと椅子の背もたれに寄りかかる。
腕を顔の前に回し、天井を見上げるその表情は腕に隠れて窺い知ることは出来ない。
「シーンを守りたい。
 力でとか、そういうことより、精神的に、支えてやりたい。
 そのためなら、何だってする…
 俺の身勝手な望みかも知れ無いけど」
ノーネが口を開こうとしたとき、ドアからノックが聞こえた。
飛び起きるように体を起こすネーノ。
「ネーノ?
 もう少しで始まるから、急いで支度して」
カズラ(司祭の礼服)に着替えたシーンがドアから顔を出す。
「了解、司祭様、じゃネーノ。
 ノーネはどうする?」
普段の飄々とした雰囲気を一瞬でまとったネーノが、何事もなかったように立ち上がる。
「あー…どうしようかなノーネ…」
言外に「礼拝に出るのめんどくさい」といわんばかりに、ぽりぽりと頬を掻くノーネ。
開いたドアの隙間から、僅かに礼拝堂に集まりつつある人々のざわめきが聞こえる。
この若い司祭が来てから、特に女性の出席率が格段に上がったらしい。
それに釣られて男性の出席率も上がり、いまや毎回座席が立ち聞きが出るくらいに
いっぱいに埋まるが、やはりその半分以上が女性だ。
男女は一応慣例として別れて座るが、この分では男性席のほうにも
女性がはみ出してしまっていることだろう。
若いときならいざ知らず、女性に囲まれて説法を聞く気にノーネはなれなかった。
「いいですよ、ここにいても。
 その代わり、終わったら片付けを手伝ってくださいね。
 ネーノ、ついでにそこにある蝋燭持って来て」
「おー」
素早くミサ用のローブを身につけ、蝋燭を抱えたネーノとシーンが連れ立って部屋をでていき、
一人ぽつんと部屋に残されたノーネは、机の上にだらしなく突っ伏した。

守りたい、と彼は言った。それにはノーネも同意する。
だが、守りきれるだろうか、とも思う。
人の口に戸は立てられない。
いつか必ずシーンの耳にも城内のことが入ってくるだろう。
もしかしたら、もう既に知っているのかもしれない…知っていて、
なおかつあの態度を取るのだとしたら、綺麗な顔に似合わず
意外としたたかなのかもしれない。
「…マトモなやつ、ねぇ…」
確かに人は殺したことはないが、今まで惨たらしい死体を何十、何百と見て来た自分は
どんなに酷い死体を見たとしても、平然とその隣で食事だってできる。
これでもマトモ、と言えるのだろうか。
「マトモなやつなんて、とうにこの国からは居なくなってるノーネ…」

ノーネの右目の傷跡がズキリ、と痛んだ。

   end


タイトルの「緋雨(ひう)」は勝手な造語です。 血の雨や血生臭い風をイメージ。
因みに「文字盤をなぞって時刻を見る」とは
視覚障害者用の、蓋を開けると針に直接触れることができる時計だから。



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